2012年01月08日

城福寺を訪ねて

詳しく知りたくて、再度城福寺を訪問しました
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       平家一門は壇ノ浦で滅亡したが
       平家一門がすべて滅亡したわけではない

       平清盛の正室藤原宗子(池の禅尼)は、平治の乱で捕えられた
       6歳の頼朝を哀れみ、清盛に助命嘆願してその命を救ったという。
       頼朝は池の禅尼の恩に報い、
       子息頼盛の領地越前真柄保は、
       鎌倉幕府に没収されることはなかった。
       その後、頼盛の子保盛が城福寺を建立して
       一族の菩提を弔ったという。
       平家一門が滅亡したなかで、平家菩提寺として残され
       れているのは全国でもめずらしい。
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       本堂内 平家一門菩提所
平家一門を祀る 厨子は立派なものであった。
この越前市に住んでいながら、知らない人が多いのに驚く
灯台下暗しでしょうネ。もっと市民に知ってほしいと願うばかりです。

又本尊 阿弥陀如来像は、穏やかなお顔の仏さまで
快慶作と言われている。これが本当だと国宝級

長時間私たちの話に、快くお付き合いくださいました
御住職、奥さまありがとうございました。


posted by 越前事務方 おかつ at 23:12| 福井 晴れ| Comment(0) | 越前市歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月06日

龍泉寺へ御年賀

正月恒例厚い経本が両肩へ、ズシリと重い。
今年一年の無事を祈って両手を合わす
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       龍泉寺宝物「龍の牙」
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池の上禅明院(龍泉寺末寺廃寺)に残されていた龍の牙

辰年にちなみ越前市に残る、池の上伝説
今から数百年前 池の上に小西弥兵衛と言う大地主がいたという。
田植えがすんだ7月になっても、雨が降らず稲は枯死寸前となり
雨乞も効果なく村人はどうすることもできず非嘆にくれた、弥兵衛は
その姿を見ることが忍びなかった。

ある日、見るに見かねた弥兵衛は意を決して
村はずれに高札を立てた、高札には「雨を降らせ、村人を救うた者には
我が娘を与える」と言うものであった。
やがて一人の武士が弥兵衛宅に訪ねてきて、雨を降らすことを約束して
帰った。すると晴れた空に一片の黒雲が立ち昇ると、またたく間に一陣の
風と共に真黒な空から雨が降り出し田畑を潤したという。
村人たちの喜び様はたいへんなものであった。
再び訪れた武士は、約束道り「娘をもらいたいと」申し出に来た。
娘は父の立場を思って、進んで村の犠牲になることを決心して
武士と共に手を携えて村の池に入り、蛇になったと言う。
 ある時池の上に火災があり、弥兵衛の家も火に包まれた、
雄蛇は池より火を消そうとして現れて、家を七巻半して
水を求めたという、しかし村人は蛇を恐れて水を与えなかったので
雄蛇は焼け死んだという。
尚雄蛇と死別した雌蛇は夜又が池の蛇と再婚して、毎年盆には
池の上に里帰りしたという。
 
この話は、龍泉寺幽霊伝説と共に、子供の頃、よく聞いた話で
覚えている。子供の頃の記憶はすごいものですネ

他人を思いやり 自分を犠牲にした美しい娘の話
現代人が忘れている 人間同士のつながり思いやりは
どんな時代でも忘れてはいけないことですネ
東北大震災のあの惨事の時、外国人に映った日本は
秩序をまもり助けあいの精神を忘れない、日本人のこころでした。

今年は日本再起の年 自分自身の生き方を再度見つめ直し
少しでも大きな自分に成長できたらと願っています。

なおこの牙は、明治天皇北陸行幸の際
京町引接寺において天覧の栄を賜わっている。






posted by 越前事務方 おかつ at 02:14| 福井 曇り| Comment(0) | 越前市歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月05日

年頭にあたり 氏神さまへ

2012年新しい年の幕開けです。昨年は3月11日の東北大震災、各地方の豪雨
世界経済恐慌などこころの重い一年でした。今も原発事故の終息は見えず
不安定な思いで日々の生活を送っている人達が、一日でも早い安らげる
日の来ることを祈ります。
今年は辰年、辰の本来の読み方は「しん」で動いて延びる、整うが語源
の様で、油断なく日々の生活を送りたいものです。

午前9時氏神さまへ、孫たちと初詣に行ってきました
この一年健康で、日々の生活が送れますように手を合わす。
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さて私の今年の目標は、春の峨山道巡行に合わせ、「瑩山禅師雑記」を製本すること
平家一門に関係のある、味真野の町づくりにぜひ取組たいですネ
そして万羽ツルの舞う出水市へ、坂元さんを訪ねて旅したいです。
今年も昨年につづき、母の元への日参が続づきます。
気が多いと家族に言われるけれど、これが私の元気の元と考えがんばります。

1月1日付け 福井新聞朝刊 特集大河ドラマ「平清盛」の記事によると

物語は宿敵 源頼朝の語りで進み、大規模な海上ロケと共に

友人でライバルでもあった清盛と源義朝が対決する平治の乱は大きな見どころであると

書かれている。この乱が放映されることは、当然義朝の子頼朝の命を清盛に嘆願して

助けた、池の禅尼はクローズアップされることになる。

味真野と関係の深い、池の禅尼、平家一門を皆さんに知ってもらう

良いチャンスではないだろうか。わーい(嬉しい顔)





posted by 越前事務方 おかつ at 23:24| 福井 曇り| Comment(0) | 越前市歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月13日

  平家一門の菩提寺 越前市城福寺

越前市味真野には,平氏と深い繋がりをもつ歴史が残されている。
平治元年(1159)前年高倉天皇の中宮徳子が第一皇子(安徳天皇)を
生むと皇太子周辺は、平家一門で固められ、後白河上皇は平氏に対して不満と
警戒感を強めていき、朝廷内の院近臣と対立するようになっていきなり、
これにより後白河院政は失脚して、清盛の武家政治が始まり
武家が摂関、天皇もしのぐ実力者となっていく。
不満を抱いた院近臣らにより発生した平治の乱に敗れた、源義朝は
平頼盛の郎党である宗清により殺害された。この時幼い頼朝をあわれんだ
頼盛の母池の禅尼は、清盛に助命嘆願して頼朝の命を救ったという。
しかしそれから20年後、平家一門は壇ノ浦の戦いにより滅亡するが
頼朝は平家打倒後も、池の禅尼の恩を忘れず、彼女の子息頼盛をたすけ
所領の安堵を含め相応の処遇をもって頼盛に報いたという。
女性の思いやりの心が歴史を変えた「池の禅尼」この越前市においても
頼朝の思いが残されている。
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                 城福寺頼盛御廟所
越前市五分市町城福寺 頼盛は越前国余川宮畑地区(真柄町)に
広大な領地をもっていたが、鎌倉幕府に没収されずに保護されている。
頼盛には4人の子供(保業 為盛 光盛 保盛)がいた保業は平家滅亡後、
関東御家人として鎌倉幕府に仕え、為盛は寿永二年木曾義仲と倶梨伽羅の合戦に
おいて討ち死にし、光盛は京都永観堂禅林寺の僧となり、保盛は文治5年平家一門が
西海に沈んだ後、父頼盛の領地が越前にあったことと、保盛自身も
以前越前守であった事もあり、京より乳母の出身地越前余川地区宮畑へ
従者三十人と共にやって来たという。
その後親鸞聖人が、越後に配流され越前を通過した時
館に立ち寄り「末越 如成」という僧名を与えられ真柄山 城福寺を建立して
平家一門の菩提を弔ったという。

寺の本堂一角に、平家一門の供養塔を挟んで右側には、保元元年後白河天皇との
皇位継承に敗れた、崇徳天皇の子重仁親王の御廟所がある。
乳母は池の禅尼であった事から、ここ城福寺に祀られ供養されている。
その横には、鳥羽上皇の中宮で崇徳、後白河両天皇の母
藤原璋子待賢門院供養塔が祀られている。、
平家一門の供養塔左手には、池禅尼供養塔、源頼朝の娘大姫、三幡姫供養塔
鹿ヶ谷の陰謀で平清盛の命を狙った俊寛僧都供養塔。、鬼界ヶ島へ配流の身となった
俊寛に会いに行き、哀れな最後を看取った有王供養塔など平家に関係した人びとの
供養塔が並んでいる

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平家一門の供養塔の中で、俊寛僧都は平家を裏切った人物であるが
俊寛と平家は婚姻関係が成立していたことによりこの同じ敷地に
祀られたものと思われる。頼朝と北条政子の娘大姫は木曾義仲の長男義高と
結婚の約束をしていたが、義仲が頼朝の命により打ち死にすると
義高も処刑され、大姫は大きな衝撃を受け心を病んだという、
この二人の姫の供養塔は姫を哀れんだものなのか
それとも頼朝に対する、礼を尽くしたのか解らない。
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城福寺は寛永元年(1624)第11世住職の浄祐が宮畑より
現在地五分市町に移転したと伝えられている。
庭園は元禄年間に造られた、借景築山式蓬莱枯山水の苔寺で日野山を借景に、
天然記念物の柊の大木と起伏のある苔が一面に美しく、国の名勝に指定されている。
現在の御住職は、保盛(如成法師)より数えて24代目
越前池氏は連綿と続いている。
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春一番に城福寺本堂前の花がたみの桜は、ソメイヨシノより一足早く満開を迎え
可憐な姿を見る事ができる。また味真野小学校の校庭に
咲く桜も見ごたえ十分です。 来春は桜見学と共に、城福寺に足を伸ばし
平家一門に会いにいくのも、一層歴史を身近に感じるのではないでしょうか。

この味真野の地 池の禅尼のおもいが残る、この町を
全国の皆さんに知ってほしいと願っています。

P1010252.jpgつづき
posted by 越前事務方 おかつ at 22:49| 福井 晴れ| Comment(0) | 越前市歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月04日

NHK大河ドラマ「平清盛」に期待 平家落人伝説 赤谷地区

好評だったNHK大河ドラマ「江」が終わり、いよいよ平清盛の登場です
この越前国は、平家一門とのつながりがある土地柄である
どんな形で、平家一門が放送されていくのか楽しみです。
越前には、平家落人伝説が多く残されている
足羽川に沿って走る、国道476号線を池田町より福井に向かってはしる
福井市下折立集落を過ぎると、左手赤谷川に沿って舗装された道路を2kmほど
車で奥地へ入ると、平家落人伝説の残る赤谷集落に着く。
村が栄えていたころは、80軒の民家が少ない平地を利用して
棚田で米を耕作して生活していたとういう。
この赤谷地区は、平清盛の子息の重盛の嫡子維盛が、倶梨伽羅合戦に敗れ
木曾義仲に追われこの地に隠れたという、しかし一説には、維盛は平家滅亡後
入水自殺したという説や、紀伊水道を逃走して身を隠したなど様々な説が残されている。
赤谷集落から先の道路は未舗装で通行止の標識が立っているが、ここより2km奥に入った
鯖江市と福井市の隣接地横谷地区といわれる地区に、最初に平家一門はやって来たという。
ここは平地であり身を隠す場所としては安全な場所であった。
ここからは、一乗山に至り赤谷峠を越えれば鯖江市上河内にでて(鯖江市河和田町)
一乗谷、朝倉遺跡へと通じる。
この場所は守るによし、逃げるに良い隠樓地であったと思われる。
赤谷由来記によると当村の儀は、平重盛公の嫡子維盛卿の陰樓地で、その子孫が増えて
赤谷村を作ったという、平家の赤旗をもって赤谷を号したという。
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赤谷家 家紋(向い蝶)

足羽郡美山町赤谷地区(現福井市赤谷町)には「平家さま」と呼ばれている巻物が
残されている。「福井意外史」によると内容は壇ノ浦の平家滅亡後、ある武将を乗せた
船が熊野灘に漂着、大和国から越前国へ逃亡してきたということを書き残したものである。
「平家一門、都より出陣に及び大合戦となり打ち破れ一門は海に沈み候、この時一人の僧が夢に
現れ、観音経を詠みあげれば 以後剣難から逃れられようというものであった。
舟は熊野沖に着きこれより大和国宇多郡龍門の滝にぬけ出たが、その後源氏に追われ
山に伏せ野に伏せて逃亡の生活の末、越前国大野まで来た。その後僧の教えにより
この山間に隠れ、観音経を唱え一生を終えた。この事を平氏の子孫は忘れず、
これを拝し日暮らしするように」と解読できるという。
赤谷地区に残る伝説によると、逃れてきたのは維盛だという。
史実上、平家は清盛、重盛 維盛と直系が続くが、重盛の死後維盛ではなく重盛の弟
宗盛が棟梁となって行く。維盛は幼少の頃から容姿端麗で女官から「桜梅少将」ともてはやされ
武将として適さなかった様で、水鳥の羽音で源氏の軍勢と間違えた富士川の戦いで逃げ出したり
木曾義仲と倶梨伽羅の合戦に敗れ敗走した時の総太将で、
戦いとはかけ離れた人物であった様である。
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平頼盛卿御廟石柱 後ろは山が迫り断崖となっている


その後平家は西海に沈んたが、維盛の行方は不明でその人生はナゾが多い。
史実壇ノ浦の合戦で入水を図った建礼門院が助けだされ、大原寂光院で出家して
平家の菩提を弔ったように、平家一族は全滅したのではない。

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頼盛の兜仏と言われている  掌に乗る小さな御尊仏 




   
赤谷家は平家45代目を称し、維盛の守仏一寸八分の兜仏と十一面千手観音を守っている。
同家に伝わる話によると、維盛は従者7人を連れて赤谷にやって来て、
僧となり余生を送ったという。
維盛の遺骸は屋敷内でダビに臥されたという。昭和30年赤谷地区で県が林道を工事した時
黒焦げの人骨が出土した、この場所は維盛がダビに臥された場所と伝えられ、笏谷石の小さな
祠があった場所のすぐ近くであったことから「平家さま」のお骨と信じ、
村人はこのお骨を祠に納め守っている。
現在字西谷、平家壁がそそり立つ中復に祠は安置され、これを「平家堂」と呼ぶ。
国家の重大事があると、この扉が自然と開き平家さまがお出ましになるという。
この扉は戦争中、常に開いていたという。
さて今回の東北大震災など日本の一大事にあるこの時、石戸は開いているだろうか。
しかし時代と共にこの堂を拝する事はできない、又一族以外がこの堂に近づけば、帰りには
雷鳴がとどろき大雨が降るといわれている。。

村中には天満神社がある。
字城山の白山神社と字平家壁、平神社祭神(維盛卿)
泰澄大師作と伝えられる薬師如来と維盛の一寸八分の兜仏釈迦如来を祭っていたが、
時代を経て 八(天)幡宮を合祀して祭り、三祭神として祭って有るという。

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     今にも崩れそうな、赤谷天幡宮

現在赤谷地区には3軒の民家が、今も平家の誇りをもって生活している。
狭い額ほどの土地に平家は隠れ住んでいた。谷からの水を飲料水として使い
棚田を耕作して食糧を自給し、身を隠すのには絶好の場所であるこの場所で、
次なる世代のために黙々とチャンスを狙っていたと思われる。
後年この赤谷部落からは多くの武将を排出して
武芸を指南したり、戦いに参戦するなど活躍している。
福井県には多くの平家落人伝説が残されている。この赤谷地区に
やって来た人物は維盛でなかったかもしれないが
間違いなく、平家一門の何某かが落ちのびた場所である。
850年以上過ぎた今日、埋もれていく歴史を埋もれさせないために
多くの人たちに伝えていきたい。
来年の大河ドラマ「平 清盛」に合わせ、
この福井県から平家一門の活躍を報告できたらと
思っています。






posted by 越前事務方 おかつ at 03:05| 福井 雨| Comment(0) | 越前市外地編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月17日

越前市大塩八幡宮の由来

寛平二年(八九〇)紀中納言友仲朝臣は、八幡宮を造営した。
この建立の祝賀に、勅使として大納言藤原朝臣季郷の下向を賜わり、
藤原公秀の宣命により、准神祇権小副従五位清原真人(当職解任後再び
勘解由長官に列せられ、従三位が与えられる)が神主に列せられた。
真人は舎人親王の孫である、小倉王の五男清原夏野で、後に臣籍降下して
清原真人姓を賜わっている.
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清務霊社 祭神舎人親王 (神職清原家の祖)

当社鎮座の際 王子保一帯を神領として武門の崇敬厚く
その裔連綿と続いたが、二十代泰景の時代、後醍醐天皇の建武の新政に不満を持つ
武士たちが、討幕を企て足利尊氏の基に結集、公家と武家の対立が一層深まるなか 
新田義貞は後醍醐天皇の、2人皇子をつれて
北陸へ下向した。その時そま山城主瓜生判官は、大塩神宮宮司舟橋泰景を城代として
金ヶ崎に向け出陣したのであるが、途中山峡の地樫曲で戦死してしまい
南朝方は敗北してしまう。宮司泰景はそま山城主瓜生保の女婿であった。
泰景に子供がなく、判官の弟越前守照の次男泰輝を養子とした
足利高経軍に敗れた瓜生一族の断絶を嘆いた泰輝は、それ以後名を「瓜生」と称した。
その後武家からの崇敬厚く寄進や造営が行われ繁栄したが
天正年間織田信長の一揆や、秀吉の太閤検地により社領を失うなどしたが
慶長八年(1603)福井藩主結城秀康公より30石を寄進されるとともに
その家臣越前府中城主本多富正公によって、大阪夏の陣の戦勝記念として
梵鐘が奉納された。元和九年(1623)徳川忠直公が20石を加増するなど
江戸時代を通して福井藩主から崇敬され、明治七年県社と定められた。
現在の神職は瓜生家42代有具氏である。

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朝倉氏から寄進された一の鳥居 宮額は一畳分の大きさである


 
posted by 越前事務方 おかつ at 21:42| 福井 雨| Comment(0) | 越前市歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月14日

木曾義仲の本陣跡が残る大塩八幡宮

日野川の支流大塩谷川の東側の集落
越前市国兼町に、寛平二年(八九一)紀中納言友仲朝臣は
大塩八幡宮を造営して、石清水八幡宮を勧請した。
祭神は十四代仲哀天皇 十五代応神天皇 神功皇后
八幡宮を囲むように、その他神社境内には、七社が祀られている。

木曾義仲は倶梨伽羅峠の戦い、火牛の作戦により平維盛率いる平家と戦い
大勝した義仲は京へ向け進撃を開始した。敗走する平家を追って
越前国へ着いたのは寿永二年(1183)六月、義仲は次なる作戦を
たてるため、大塩八幡宮に陣を構えたのである。
この時拝殿が炎上したため、杣山日吉神社の拝殿を壊し、三日三晩で
造営したという、義仲は本意を遂げ祈願成就した暁には、必ず造り替えるとして
陰陽の柱を逆に建てた・・・・・しかし義仲は源頼朝の送った、範頼、義経により
近江粟津の戦い寿永三年(1184)で討たれその願いは叶わなかった。
今も柱二本は逆に建っているという。

拝殿正面七間 側面四間の入母屋柿葺 56本の柱すべて円柱で自然石基礎の上に建てられ
拝殿 幣殿 本宮からなっている。昭和五十三年拝殿は国の重要文化財となっている


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本殿の裏手桜井の峯(170m)に、木曾義仲の本陣跡が残されている
ここより高岡城(224m)に至るまでの間には、3ヶ所の堀切の跡が残されている
この場所は北陸道に近く、東に日野川を挟んで日野山を望み、ここより越前平野が広がる
要害の地にて、南条 大塩 向新保 帆山など府中一円において、
鎌倉幕府北条執権より南北朝時代建武の新政に至るまでの間
多くの戦いが繰り広げられた、
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今回訪れた時、八幡宮より高岡の峯大塩城祉(220m)までの区間
遊歩道を整備することで、町内の人達4、5人に出会った
来年のことを見越して、皆さん動き出したのでしょうか
八幡宮は歴史的に古く、見どころもたくさんある。わたしと
一諸に来た友達は、是非ボランティアガイドをしたいと
言っていた、やる気満々です。

来年のNK大河ドラマは「平清盛」この大塩八幡宮も
平家と関係が深い、
この八幡宮が来年は、是非全国から脚光を浴びる場所に
なってほしいと願っています。

posted by 越前事務方 おかつ at 05:11| 福井 晴れ| Comment(0) | 越前市歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月04日

糞掃衣献納

戦災と震災の被害にあった福井市
福井駅の北側大通りに面したところに
コンクリート作りの鎮徳寺がある。
今日は四月から龍泉寺お袈裟を縫う会の会員福岡さんが
個別に製作していた15条糞掃衣を献納するため同席しました。

糞掃衣とはなんであるかということすらわからない人達が
ほとんどでしたが、最後にはみんな意気投合して
本当にこころの籠った最高のお袈裟を作ることができました。
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皆さんでお唱えして方丈さまに奉納することができました
大哉解脱服(だいさいげだっぷく)  大いなる哉 解脱服
無相福田衣(むそうふくでんえ)   無相なる福田衣   福田(真実の幸福を生みだす田地)
被奉如来教(ひぶにょらいきょう)  如来の教えを奉じて
広度諸衆生(こうどしょしゅじょう) 広く諸々の衆生を度せん
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posted by 越前事務方 おかつ at 22:41| 福井 晴れ| Comment(0) | 糞掃衣に魅せられて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月22日

がんばったね 福岡さん

今年4月より製作を始めた、
福井市日の出、鎮徳寺さまへ献上する糞掃衣が出来上がり
本日福井新聞社の記者の取材を受けました。
今回初めて製作に挑戦した、龍泉寺お袈裟を縫う会の同じ会員の
福岡さんのお手伝いをさせていただきました。
お袈裟を縫うのは、初めての人たちばかりで、お互い初対面の人が
多いなか、皆さん和気あいあいと楽しく
縫うことができ、こころのこもった素晴らしいお袈裟が出来上がりました。
できあがった、お袈裟を見て一同「ようなったのー」
「方丈さん喜ぶでー」「こんなお袈裟見たこと無いわ」
世界中で一枚だけの尊いお袈裟です。
八月四日 鎮徳寺さまへ献納致します。この日もう一度
福井新聞社の取材が有り、その後新聞に掲載されることになっています
どんな記事として取り上げてくださるのか楽しみです。
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posted by 越前事務方 おかつ at 23:10| 福井 曇り| Comment(0) | 糞掃衣に魅せられて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月10日

「瑩山禅師さま」校正できました

先月峨山道巡行に参加しての帰り、佃和雄先生にお願いしておいた
誕生の地越前市帆山町より「瑩山禅師さま」の原稿の校正がおわり
早速送られてきました。
赤ペンでの校正 ご丁寧なるお手紙が添えられ身に余る光栄と思っています
できたら、冊子か資料として残して置きたいと思っています

道元禅師の本は十冊ほど発行されているが、瑩山禅師の本は
東 隆眞著「太祖 瑩山禅師」のほかに出版されている物は
少ないようです。また女性がこの様な物に取り組むことも
珍しい様で、先生からも本にすることを進められました。
まとまりのある物にするには、まだ時間がかかりそうですが、
能登総持寺が鶴見へ移転して100年の節目の年であり
移転日11月5日までには、形にできたらと考えています。




posted by 越前事務方 おかつ at 23:18| 福井 雨| Comment(0) | 瑩山禅師誕生の地 越前市帆山町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月05日

からし麩の作り方

福井県一円では、葬式、報恩講 講 法事の料理として
用いられている
今日は、龍泉寺開山忌の、昼食の一品に
作りました。

材料
きゅうり 2本
塩    少々
麩(角型)10個
酢    大さじ3杯
味噌   大さじ3杯
からし  小さじ2杯
砂糖   大さじ3杯

作り方
きゅうりは輪切りにして 
軽く塩揉みして水を切る

麩(角麩)は水にもどして堅く絞り、四切にする

からしを十分練り
味噌 砂糖 酢と合わせ酢味噌を作る

(からしは 市販で鬼からし(製造者 山清)
この会社の和からしが,
からし麩作りには一番適しています
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合わせ酢味噌できゅうり、麩をあえる・

注意 きゅうり 麩を堅く絞り水分を取り除くこと

   酢味噌作りは、砂糖 味噌 からしが完全に解けるまで練る
   私はすり鉢を使い酢味噌を作ります
   味の好みは、各家庭の味で増減してください

   簡単に、おいしいからし麩ができます、お試しください。

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posted by 越前事務方 おかつ at 06:00| 福井 曇り| Comment(0) | 福井おふくろの味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月03日

第47回峨山道巡行に参加して

小雨降る中を午前4時福井を出発、今回の参加者は7名
永光寺を出発する時降っていた雨は、歩いて数十分の所で
雨は止んだ。峨山禅師さまのご加護を頂いての巡行となる。
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今回は2回目の参加、周りの人たちを見ると年齢に関係なく、
男女を問わず 健脚の人が多い、参加者で若い方なのに歩くのはいつも
最後尾です。ごめんなさい そこで今回はチョツト
バスに乗せていただきました。私の様な体力不足の人間は
ボランテアで、お茶の接待での参加がいいかもしれませんね。
主催者の皆さんいかがですか。

今回は一足早く総持寺祖院までバスに乗りました
境内と禅の里交流会館を見学。展示物の中に
瑩山禅師が後醍醐天皇より賜わった諭旨の写しが目を引きました
ニ階の展示場は時間の都合でパスしました、チョツト残念です

能登地震で被害を受けた本堂は修理中です
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僧形観音堂左手下にある墓
この右側の墓には大徹和尚の文字が見えています
その他の 墓の文字を読み取ることはできませんが
この墓群は、峨山禅師の優れた弟子五哲と言われた
大源、通幻 大徹 無端 実峰禅師の墓でしょうか

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今回はゆっくり境内を拝観できました
こんなゆとりがあっても、良いのではないでしょうか。
posted by 越前事務方 おかつ at 23:20| 福井 霧| Comment(0) | 越前市外地編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月02日

久々に咲きました

今年は、花ミズキの花つきがよいようで
どこを車で走っても きれいに咲いています
我が家の椿(玉の浦)も三十年前に植えたものが
やっと花をつけました・

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よい品種のものは、幹も太くならず花付きも悪い様です
でも咲くと見ごたえのある立派な花でしょう。、
posted by 越前事務方 おかつ at 23:53| 福井 曇り| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

寂しいこと

4月15日より入居した 老人ホームへ 実家の母を訪ねた
開口一番母は、わたしの顔を見るなり「さみしい」といった
車椅子に座り、何をするわけでもなく 一日中みんなと同じ部屋にいて
男女の共同生活をしているだけ 周りの人たちとの会話もない
雰囲気は異様である、静かなことを好む母には苦痛だと思う
部屋は特別自分の部屋は与えられず、夜寝る時だけ部屋へ入れてもらえるらしい。
痴呆老人とみなし、人権は尊重されていない.
母は94歳になりる、ホームへ入るまでは、三世代同居、一人で留守をまもり、
八十歳を過ぎても 針仕事をして店の手伝いをしてきた
老齢と共に、少々のトンチンカンな事をいったり、粗相をすることもあるが
自分のことは、できていたし、周りの手助けが有れば家庭でも十分生活はできたと思う

これは娘だから思うのかもしれないが
周りの優しさ、思いやりがあったなら、年老いても寂しい思いを
させずに人生の最後をむかえさせてあげることはできると思うのだが。
最後は見る人の人間性しかない。
社会福祉が充実してきたとはいえ、
本当の幸せとは何だろう、人間としてのおこないはこれで良いのだろうか
親の最後は子供が見る、かえって福祉の充実していなかった昔の方が
良き時代なのかも知れない。






posted by 越前事務方 おかつ at 23:35| 福井 曇り| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月11日

小浜下根来地区

尼僧さまの本葬に出席するため、奈良二月堂へ水を送る
お水取りで有名な鵜の瀬を過ぎると道幅も狭くなり
交通量も少なくなる、この街道は鯖街道と言われ朽木を
通り京都へ入く重要な街道であった。
この街道沿いに根来地区が有る。
本葬までの時間があったので、周辺を散策した
農作業をしていた人に聞くと、街道が栄えていた頃は80軒の
民家が有り、山仕事で生計をたてていたが、時代と共に
町の方に出ていき、いまでは20数軒の家があるだけの
過疎の村になってきている。

ここでいい風景に、出会いました
棚田です、石積みされた小さな田が段々と続いています
生活の糧となっていた米作りが山を切り開いて作られていたのです。
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住宅は残されているが、人は住んでいない
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石積みされた田んぼが続づく
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posted by 越前事務方 おかつ at 01:32| 福井 晴れ| Comment(0) | 越前市外地編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

糞掃衣献納

大本山總持寺大道禅師さまに
お釈迦様の誕生日4月8日
本山にて禅師さまに拝謁して無事糞掃衣を献納する栄誉を賜わりました。
禅師さまは御年94歳 4月16日總持寺を退任され
北海道へお帰りになります。

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糞掃衣を着けていただいた、その御姿は慈悲にに溢れ
仏さまのようでした。自然とこみあげてくる涙は・・・・
言葉に表せない、ありがたく尊いものでした。

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お袈裟を作る喜びを 全員が感じとれたのではないかと思います

この喜びを胸に、これからも一層精進していきたいと思います
posted by 越前事務方 おかつ at 01:06| 福井 晴れ| Comment(0) | 糞掃衣に魅せられて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月26日

福井新聞に掲載

三月二十二日 龍泉お袈裟の会が朝刊に掲載されました
糞掃衣の特徴は縫い方に有ります
「却子」と言う縫い方で、糸の出し口より右下へ斜め45度
下がった所へ針を刺し縫っていきます。この縫い方は簡単に
糸がほどけない縫い方です。
記者のお兄さんは、いろいろインタビューして帰りました。
メモしていくわけでもないのに、、上手く記事にして下さって 
ありがとうございます。
後で勉強しているのでしょうか?
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糞掃衣は田んぼに見立ててあり
山が有り 雲が流れ あぜ道が有ります 日本の原風景ですネ
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posted by 越前事務方 おかつ at 00:27| 福井 曇り| Comment(0) | 糞掃衣に魅せられて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月22日

糞掃衣出来上がりました

能登総持寺が大火の被災から 鶴見丘へ移転して 今年で100年の年にあたります
総持寺へ奉納する2枚の糞掃衣が出来上がりました
今日は作業に携わった みんなでご苦労さんのお茶をして
お互いの労をねぎらい  次なる製作に意欲を燃やしていました。

15条糞掃衣です
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作業をされた皆さん いい顔しているでしょう
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posted by 越前事務方 おかつ at 22:18| 福井 曇り| Comment(0) | 糞掃衣に魅せられて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする